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自分でいられる居場所を探して
ヒャダインさんの感じてきた「生きづらさ」
音楽クリエーターのヒャダインさん(44)は、小学生のときにいじめを受けた体験から、学生時代は人間関係に悩み本当の自分を出せない「生きづらさ」を抱えていたといいます。ヒャダインさんが心を守るためにやっていたことや、「居場所」としての音楽との関わりについて聞きました。
「ありのままの自分を見せたら嫌われる」と悟った小学6年生
――ご自身を人と距離を置く性格と分析していらっしゃいますね。きっかけは何だったのでしょうか。
小学6年にまでさかのぼるんですけど、僕すごい勉強がよくできたので、いけ好かないやつだったんですよ。学校の勉強なんてめちゃめちゃ簡単じゃん、みたいな感じで、それを鼻にかけてたんですよね。小学6年生の時にそれが転じていじめられました。無視されたり、物をトイレに捨てられたりしました。
――ショックな体験ですね。
僕としては、勉強してできるようになるのが、すごく好きだったんです。だけどこの経験で「ありのままの自分を見せていたら、嫌われてしまう、人とうまく付き合えないんだ」ということを強く体感したんですよね。それで、小6の頃から人との関係は「どうせこの人たちと長く続くわけないしな」と、斜に構えるようになりましたね。
高校時代の1人の昼食は、心を守る時間
――中学・高校時代のクラスではどういう過ごし方を?
中学受験をして、中高一貫の進学校に入りました。クラスにはヒエラルキーがあって、僕は、先生に愛されている感じもしてなかったし、メインのクラスメートのおしゃべりには加われないし、でクラスのヒエラルキーは高くなかったです。高校1年のあるときに、僕は友達だと思っていた人に、「お前は友達ランクB」と言われたんです。「あいつとあいつはランクA」だと。僕は友達にランクを付けられていることにびっくりしちゃって。「確かにAランクのやつらに比べたら僕は一緒にいる時間が少ないよな」と思ったと同時に、自分の認識と相手の認識が違う時ってこんなに傷つくもんだなっていうことを体感しました。自分の心の保険をかけるように、「状況とかライフステージが変わったら人はまた離れていくだろうな」と人間関係をちょっとドライめに考えるようになったきっかけの一つでもありますね。
――傷ついた気持ちに、どんな風に対処したのですか?
人間ってそういうとこあるよね、と再確認した気分になって。独りぼっちでいるところを見られたくなくて「便所メシ」ってやつをやっていました。学校に穴場の、全然人の来ない、すごくいいトイレの個室があったんです。そこで1人で個室で食べていました。非常に快適でした。途中からは放送室とか用務員さんの部屋とかで食べていました。みんながワイワイしている中で、1人で食べるっていうのは結構プライド的に傷つきます。他の人は居場所があるのに、自分だけは安心できる居場所がない。それは、自分が何かが欠けている劣等品のように感じました。なので、本能的に自分の心を守る行動に出ていたのかな。こういう心を休ませる場所がなかったらつらかっただろうなと思います。大人も子供もそうですけど、居場所があるというのは本当に生きていく上で大切なことだなと思います。
「エスカレーター人生」が崩壊 ニューヨークで決めた音楽の道
――コミュニティーが変わって大学生活はどうだったのでしょうか。
「スルッと京大に入ってやったぞ」って先生たちに思わせたい軽い復讐(ふくしゅう)心もあって、受験をがんばって京都大学に入りました。でも入った途端に燃え尽き症候群になっていました。別にやりたいことがなかったんで。次は勉強に取り残されて。周囲のノリにもついていけずに、だんだんと足が大学から遠のいてバイトの日々になりました。レンタルビデオ店でバイトしていて、お店で売り出すCDを決めたり、その店づくりをしたりすることで、初めて社会の一員になれた、という気がしました。達成感はすごくありました。
――音楽に関わるアルバイトが一つ、自分の居場所になったのですね。
でも大学三年生の夏の試験のころに久しぶりに大学に顔を出したら、久しぶりに会った友人に、「就活どんな感じ?」みたいなこと言われて、びっくりして。大学受験は高校3年生からするから、就職活動は大学4年生からするものという感覚だったんです。なのに、エントリーシートどうしてる?とか言われて、「終わったー」と思い込んじゃって。エスカレーター式に来ていた人生が壊れて、奈落の底に落とされた気分でした。
――その底からはどう出てきたのですか?
大学時代にしかできないことをやろうと思って、ニューヨークへ行ってブロードウェーのミュージカルを見あさっていました。そうしたら帰国予定の前日に、9.11(アメリカ同時多発テロ)が。飛行機がぶつかったビルには、ブロードウェーのチケットを買いに毎朝通っていたんです。たまたまその日は靴がぬれていたのと、ブロードウェーはもういいかな、と思って行かなかったことが幸いしました。その時に、「何が起こるか分からないから自分の好きなことをやろう」と決めて。それで「好きなことって何だろうか」と自分と向き合ったときに「音楽だな」と思い至りました。
アルバイト先で言われた「上から言うよね」 曲作りが変わった
――音楽は昔から好きだったのですか?
3歳からピアノを習っていました。いろいろな習いごとを試しましたが、僕は運動が苦手で、ピアノのほうにはまっていきました。自分のプライドとアイデンティティーを保つために、ピアノという能力を持てたことはすごく良かった。夢中になって弾いて、偽りのない自分でいられる時間でした。夢中になれること、大好きで自分が得意だって言えることを見つけられたっていうことはすごくラッキーだったと思います。ゲーム音楽を耳コピで弾いたり、中一でシンセサイザーを買ってもらって、1人で音楽を作る喜びに気づいたり。そのまま音楽とのつながりは続いて、大学時代にコンピューターを使って音楽作りを始めましたね。
――それが作曲家を志すことに
ニューヨークに行ったときに、音楽で生きていこうと思ったのですが、自分でアーティストとして活動するにしたら歌唱力が足りない。それで作曲家になろうと思いました。ニューヨークから帰国してから、大学に通いながら週一回の講座に行って。でも先生に、「なんか当たりさわりのないデパートのBGMみたいな曲ね」みたいなこと言われて、結構衝撃でした。たしかに人に聴かせるように作っていなかったので、その通りでした。もしかしたら、当時はまだ小6の時についた「自分を出しちゃいけない」みたいな癖が、影響してたのかな、とも思います。
――音楽の作り方が変わることがあったのですか?
大学卒業後は上京して、作曲家事務所に所属しましたが、曲を書くけれども全然採用されない毎日でしたね。ある時沖縄料理屋さんでホールのバイトをしていて、一緒にバイトしていた人に「なんか上から言うよね」みたいなことを言われたんです。無自覚だったんですが、そういう雰囲気が曲にも出てたんじゃないかなと思って。そこで、「みんなと一緒に楽しめるものは何だろう」と考えながら曲を作るようになりました。
音楽で自分を受け入れてもらえる 呪いが解けた瞬間
――その後、動画投稿サイトに投稿した楽曲が注目を集めました。
認められた時は本当に跳び上がるぐらいにうれしくて。「あー自分を認めてもらえる世界ってあるんだ」っていう風に思えた初めての経験だったんです。その時にやっと小6の時からの呪いが解けたのかもしれないですね。音楽という手段で自己表現して、自分がやりたいこと、面白いと思っていることを解放しても、受け入れてもらえるんだ、と思った。無理して、その小学6年生から中高大学で手に入れた客観性とか俯瞰(ふかん)してみる能力も混ぜ合わせて作った曲が受け入れられた。これまでの自分全部を含めて、認められたような感じがしました。
――楽曲が認められるまでは、社会との距離感や生きづらさは感じていましたか?
中・高・大学での生活の方がずっと孤独感とか生きづらさを感じていたと思います。当時の自分の素を出せずに居場所がない、という状況はつらかった。曲をつくりながらのバイト生活のときのほうが貧乏ではあったのですが、自分の好きなこと、夢に向かっているっていう心の違いは大きかったかもしれないですね。音楽作りという居場所を持ちつつ、東京では友人やわかりあえる人もできて、他の居場所も作ることができました。
曲の役割は「背中は押さないけど隣にいるよ」
――ひきこもりや生きづらさが、歌詞の中に出てくる楽曲も手がけていらっしゃいますね。
あまり分かったふりはしないようにしています。自分と向き合うつらさとか痛さとかは本人と同じようにはわからないでしょうから。でも居場所がないこと、砂漠に1人ぽーんと放り出された状態でどっち歩いたらいいか分かんない、という状態が一番しんどいと思うので、せめて「なんか楽しいことあるよ」「若干だけど寄り添えるよ」「背中は押さないけど隣にいるよ」ぐらいの雰囲気を感じてもらえるよう心掛けてはいます。文章とかドキュメンタリーにすると重くなる、嫌な思いとか暗いものを、ポップソングにすることで昇華して、次のステージに乗っけることができる。それがエンタメのすごさだとも思います。
――自分らしくいられる居場所は大切ですね。
僕も、中高生ぐらいのときにオンラインゲームがあったら、それを使って部屋の中からいろんな人とつながって、居場所を探していたと思う。居場所はオンラインゲームのギルドでも、ネット上のコミュニティーでもいい。鬱屈(うっくつ)した思いだったり孤独だったりを、ボカロに歌わせてシェアする場も居場所の一つだと思います。僕が中高生のときにそういった技術があったら、絶対ボカロPやってましたもん。人それぞれの生き方のテンポを尊重しながら、苦しんでいる方たちが選べるように、推し活に出かけてみようかなと思える楽しみや、思いを発信したり居場所を見つけられたりできる方法の選択肢を提示することも、いいことなんじゃないかと思います。
PROFILE
ヒャダイン
音楽クリエーター
本名は前山田 健一。1980年大阪府生まれ。3歳の時にピアノを始め、音楽キャリアをスタート。作詞・作曲・編曲を独学で身につける。京都大学を卒業後2007年に本格的な音楽活動を開始。動画投稿サイトへ匿名のヒャダインとしてアップした楽曲が話題になり屈指の再生数とミリオン動画数を記録。アイドル、J-POPからアニメソング、ゲーム音楽など多方面への楽曲提供を精力的に行い、自身もアーティスト、タレントとして活動している。
contents 当事者・経験者の声に触れよう
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全国キャラバン ㏌ 愛知「今わたしにできること〜“寄り添う”って何?」
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全国キャラバン in 滋賀「今わたしにできること〜多様な立場からの関わり方」
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海谷一郎さんからあなたへ
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ボイスTV⑤【親の気持ち 子の気持ち】ゲスト:宮本亞門/池上正樹(KHJ全国ひきこもり家族会連合会副理事)
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ボイスTV③【ゲームとかネットとか】ゲスト:JOY/新里渉(元ひきこもりプロゲーマー)
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ボイスTV② 【ココロと健康】ゲスト:山田ルイ53世/大橋伸和(ひきこもりピアサポーター)
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ボイスTV①【世間の目がツライ!】ゲスト:山田ルイ53世/林恭子(ひきこもりUX会議代表)
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